《北山別院のいま》『宗報2015年9月号』より
本願寺北山別院
親鸞聖人が六角堂参籠の折、立ち寄られた清水「御聖水」。当時は天台宗養源庵の境内にあり、その後も長らく他宗の所有にあった。その荒廃を憂い、真宗寺院と成し、御坊と成したのは、聖人を偲ぶ先人たちの尽力だった。
京都市内では残暑厳しい8月下旬。ただ、北山別院は背後に山が迫る高台にあり、境内までの坂道には、わずかに涼風が通う。
門をくぐり、本堂に参拝すると「降台閣」との額がある。これは本願寺第20代宗主、広如上人が掲げられたものだ。比叡山と六角堂の往来の途次、親鸞聖人が腰を掛け、脚を休められたといわれている別院の境内からは、京をめぐる山々と盆地に広がる街並みが、はるかに見渡せる。
江戸時代『高祖聖人皇都霊跡志』を著した僧純は、「御流れを汲みたてまつる道俗男女にいたるまで渇仰すべき御霊地なれば、我もゝと参詣いたし、聖人御在世の御苦労を思うかべて御恩を喜ぶべきものなり」として、このような2首を記している。
仰げたゞ我身のために法の師の
かよひ給ひし比叡の山道
法の師のあと慕ひつゝ汲やひと
みやこの北の山の真清水
比叡山の麓、清水の湧き出でる里に、時を超えて門侶たちが偲んだ若き日の親鸞聖人のお姿。ご旧跡を変わらずに護り続けた多くの有縁の人びとの思いが境内の随所に宿る。
別院には聖水保育園が隣接する。1949(昭和24)年4月の創立で、輪番が園長を務め、背後を山に抱かれた緑豊かな園庭には、園に通う75人の子どもたちの賑やかな声が響く。
《北山別院の沿革》
〇親鸞聖人の御旧跡として
京都市左京区にある北山別院は、親鸞聖人ゆかりの別院だ。都の北郊、洛北と呼ばれる一帯にあり、すぐ東には東山三十六峰のひとつ、瓜生山が迫る。
さらにその東にひときわ高くそびえるのが比叡山だ。別院の濫觴は、聖人がこの山で修行されていたころにさかのぼる。
9歳からの20年間、比叡山で厳しい修行に励まれた親鸞聖人は、1201(建仁元)年に山を下りられ、六角堂に百日間の参籠をされた。
六角堂(京都市中京区)は、寺号を頂法寺という。聖徳太子の創建と伝えられ、平安時代より広く信仰を集めていた。「観音験を見する寺、清水石山、長谷のお山、粉河近江なる彦根山、ま近く見ゆるは六角堂」(『梁塵秘抄』)と当時の今様にうたわれたように、観音の霊場として夢告を得られることで有名だった。
北山別院のおこりは、親鸞聖人が比叡山からこの六角堂に参籠される途中、身を清められたという清水にはじまる。これが、今も境内に湧き出る「御聖水」で、当時は天台寺院、養源庵の境内にあった。
親鸞聖人は、この六角堂参籠のすえ、95日の暁に聖徳太子の示現を得て、東山吉水に在った法然聖人と出遇われることになる。
また、親鸞聖人が得度後、比叡山上山前のしばらくの間、ここで修学されたとの口碑も古くからあったようだ。明治期の『本派本願寺名所図会』は、「本院創設の縁起は確乎たる古記の微すべきなく為に其詳細を知り難きも」と断りながら、往昔、叡山三千坊の随一であったこの寺で、比叡山に上られる前の親鸞聖人が修学されたことから「御里坊」の別名があるのだという説を紹介している。
後世、若き日の親鸞聖人を偲ぶため、多くの人びとがここを訪れた。ここを御旧跡として尊ぶ人びとの思いが、長らく他宗の所属だった庵を、やがて真宗寺院と成し、御坊と成して、その後のいくたびもの復興を支えることになる。
〇境内に親鸞聖人を偲ぶ
六角堂に百日人参籠のため、親鸞聖人は、比叡山から六角堂までの3里余りの道のりを、夜な夜な。お通いになったという。伝えるところによると、季節は冬。寒風激しく吹き付ける夜も、厭うことなく参籠は続けられた。途中、湧き出る清水で喉を潤し、御身を清められた、その「御聖水」は今も、別院の境内に大切に護持されている。鉄扉の境内に大切に護持されている。鉄扉のなかを覗くと、石組の井に澄んだ水が静かに満ちている。別院の山号「聖水山」はここに由来するものだ。
ある日、聖人がこの聖水の傍らにお休みになっていた時のこと。聖徳太子が忽然と少し離れた石の上に現れたと伝えられている。
「聖人衆生哀愍の志しを尚さら励ませ給へや、頓て大願成就あるべし」。
そう告げるやいなや、お姿は消えた。今、御聖水のほとりにある「影向石」(ようごうせき)と呼ばれる大石の、これが由来だと『高祖聖人皇都霊跡志』などは伝えている。
影向石は、石の柵に囲われ、御聖水と並んで立つ。一帯は今も浅く水をたたえるが、江戸時代の『親鸞聖人二十四拝順拝図会』には、編笠を取って影向石に合掌する者の姿と、その傍らには飛沫を上げて滔々と流れる清流が描かれいる。
〇京都に残る参籠途次の伝承
六角堂に参籠される際、聖人がお通りなったという道が雲母坂だ。比叡山から都までの往来に、この道は「嶮岨なれども捷道なり」(『拾遺都名所図会』)と知られ、雲母坂の名は、この坂が常に雲を生じることに由来するとも、雲母が多く混じる土壌であることに由来するともいわれている。
坂の上り口には、「親鸞聖人御旧跡きらら坂」の石碑が建てられている。1958(昭和33)年7月に、遠く金沢の同行により建立されたものだ。
また、京の都にも親鸞聖人の六角堂参籠のゆかりを伝える寺院がある。東山法住寺の「親鸞聖人そばくい木像」だ。
夜な夜な親鸞聖人が下山し、明け方密かに戻ってくるという噂は、修行に励む僧侶たちの間で良からぬ憶測を生んでいた。これを聞きつけた慈鎮和尚。ことの真偽を確かめるため、ある夜、比叡山で、ひとりひとりの名を呼び蕎麦を振る舞った。聖人の名を呼ぶと、「はい」との返事。これによって噂は嘘だと断じられたわけだが、翌朝、そうとも知らず、いつも通り山に戻られた聖人は、これを聞いて首を傾げられた、返事をしたのは誰なのか。不思議なこともあるものよと、ふと見ると、手彫りの木像の口に蕎麦がついていた。天台宗の法住寺に安置される座像の由来として、京に伝えられる話だ。親鸞聖人のゆかりの伝説は、真宗寺院以外にも、京のあちこちに残されている。
〇真宗寺院としてのはじまり
親鸞聖人ゆかりの御聖水を有する養源庵だが、室町時代にはに荒廃の途に在ったらしい。これを悲しまれ、第9代宗主実如上人が復興させたと伝えられている。
しかし、このころ、養源庵は他宗の所属だった。天台宗、その後臨済宗の南禅寺、次に浄土宗西山派の十念寺の末寺となるなど、所属を転々とした。
1670(寛文10)年2月には、南禅寺と十念寺がその所属をめぐって訴訟に及び、ついに養源庵が官府に没収される事態となった。親鸞聖人御旧跡の廃庵を嘆く声は、9年の時を経て復興の動きとなる。
この経緯は『聖水山養源寺廣記』(本願寺史料研究所保管)に詳しい。著者の慶永は小川通下立売の真宗寺院、正覚寺の住職だ。
1677(延宝5)年10月、藪里村の庄屋を務める半兵衛という者が正覚寺を訪ね、彼の住まいの南隣、舞楽寺村にある養源庵について語り出したところから記述ははじまる。先の南禅寺と十念寺の争論の様子を伝え、以来廃庵となって大破し、名ある古跡が亡ぶことを「千万歎かしく存ずる」と半兵衛は訴え、この旧跡を真宗の道場と成すことを願った。
聞けば半兵衛の祖父は浄土真宗の門徒で、父の時に他国より村に移り住んで後は浄土宗として暮らしてきたのだという。
10月下旬、半兵衛と養源庵に向かった慶永が見たのは、聞いていた通り、戸や障子、畳等もなく、本尊も見当たらない庵の姿だった。慶永は墓地を歩き、どこか既視感のあるその風景が、2年前に夢でみた山寺の境内だと気づく。この感激が慶永を動かした。この庵を本願寺の末寺として再興させることを決意する。
半兵衛との協力で、周到に準備は進められた。翌6年1月、正覚寺慶永は京都町奉行能勢日向守頼宗に請い、翌月本願寺の末寺として、また養源庵改め養源寺となることが公に許された。
〇晴れて御坊となるまで
公儀の裁許で本願寺末寺となった養源寺だが、これで落着とはならなかった。寺を浄土宗に成さんとする者がこの裁許に異を唱え出したのだ。しかし、この時養源寺の側に立ってこれを擁護した人物がいる。奉行の頼宗だ。異論が起こると大いに怒ってこれを斥け、また、病で職を退くに当たっても、病床から後任の前田安芸守に養源寺の後事を特に言い置いた。
その恩義を重く見た慶永が、後に本願寺絵所の徳力善雪に頼宗の肖像を描かせ、参拝者に披露するなど、真宗寺院となった寺の功労者の一人に数えられている。
こうした助勢もあったものの、寺領拝領の年の10月に修行を試みた報恩講は、反対派に押され延期が決定し、これには一同難渋した。そして思い当たったのが、寺付の山林田畠のこと。ここに係争の元があるのではないか。寺地のほかに望みはないものをと、ついにこれを手放して寺域を護った。
その養源庵が本山の御坊(別院)となったのは、1680(延宝8)年7月のこと。はじまりは本山家司の上原兵庫からの申し出による。前代未聞の経緯で真宗寺院となった養源庵だが、正覚寺一寺では護持しがたいのではと、御坊と成すことを勧めた。本願寺での評議では、1ヵ寺でも取り立てることは仏祖への報謝、宗旨繁盛の基となると当時の宗主、第14代寂如上人もお認めになり、1683(天和3)年に養源寺はついに本願寺の御坊となった。北山御坊としてのはじまりだ。
廃庵から真宗寺院としての再興、そして御坊となるまでを見届けた正覚寺慶永。彼が1699(元禄12)年に記した『聖水山養源寺廣記』は、御坊となった因縁を、古くは親鸞聖人がこの境内にお立ち寄りになり、腰掛られたこともある故のものと「有カタクモ又貴クモオモヒタテマツルモノナリ」との感慨っで結ばれている。
〇御坊境内の変遷
1732(享保17)年、北山御坊の本堂は山科に移される。1532(天文元)年に焼失して以来、山科御坊の跡地への坊舎再建の望みは、門侶の200年越しの悲願となっていたが、当時幕府が新寺の創立を許可しなかったため、すでにある伽藍を移築する方策が取られたのだ。
移築先の山科の御坊は「聖水山舞楽寺」と呼ばれることになる。これは、山城国愛宕郡舞楽寺村に在った北山御坊の別名で、山科への移築は建前上、寺の移転というかたちで認められていたため、そのままそう呼ばれたのだ。かつては「聖水山」の額も、こうした経緯で山科御坊に掲げられていた時代がある。
一方、北山の地には小さな庵が残され、物寂しい有りさまだったという。ただ毎年8月2日に修行されていた宗祖の忌日は例年通り営み、都人が競って参拝した(『高祖聖人皇都霊跡志』)。
その後、年を経て1765(明和2)年10月、第17代宗主法如上人がこの御堂の復興を期される。まもなく普請がはじめられ、「是に於て殿堂広大に面目を改め、講徒の帰依ますます興隆し」(『本派本願寺名所図会』)との再建を遂げた。
1773(安永2)年、村内の火事で類焼した折には因縁浅からざる御旧跡のことと、すぐに再興が図られた。3年後の仮堂造営、書院なども次々に手掛けられ、1822(文政5)年、ついに本堂の再興となった。1859(安政6)年の『大谷家土産』にも、近ごろ再建された御坊が「至て壮麗也」と評されている。毎年の報恩講はご親修にて営まれた。
安政年間、広如上人のころ岡崎にあった本願寺掛所、願成寺の請いで、岡崎へ堂宇を移すことになり、その後庫裏、書院、玄関、仮門が再建されたところで「国家多事なりしがため」工事が中止されるという事態となった。
再びの着工は、1871(明治4)年第21代宗主明如上人が自らが命じて、本堂や諸堂の造営がはじめられた。この時、門前の石段に至るまで、崇敬の講徒たちが互いに力を合わせ、悉く改修されたという。護持につとめた講社には、京都北山講、大阪御花講などの名があげられている。
1884(明治17)年から、与謝野鉄幹の父、与謝野礼厳が別院の留守居を務めたことでも知られる。
鐘楼の鐘は1901(明治34)年に御花講が寄進し、もとは明の時代に中国で鋳造されたものと伝えられており、裾の波打った独特の形が目を引く。
1920(大正9)年に新たに八間四面の本堂が再建された折にも、有縁の人びととのひとかたならぬ尽力があった。境内の灯籠や天水受けはこのころ寄進されたものだ。
今の本堂は1978(昭和53)年の即如門主(当時)のご巡拝を機に気運が高まり、1980(昭和55)年に新築された。さらに1998(平成10)年には本堂内陣の改装、境内地整備を経て今に至っている。
裾の波打った独特の形の梵鐘